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タカノフーズのあゆみ

1957 年~ 個人商店から法人化へ 東京への進出

高野徳三は、家内工業的な業態に安住せず、将来の成長を図るべく、昭和32年12月、高野商店を「有限会社おかめ納豆本舗」に改組した。昭和37年には、量産化と合理化をめざして玉里工場(後の霞ヶ浦工場)を建設し、コンベア導入による流れ作業は、生産量を大きく伸ばすこととなった。また、機械化が進むにつれて量産体制が整い、販路も県下全域にわたり、昭和30年代後半には東京へと販路が拡大した。昭和40年、東京営業所を開設、大手スーパーとの取引が開始された。この時、日本経済は本格的な高度成長期に突入、大量生産と大量消費を結ぶチェーンストアが誕生し、流通革命の旗手として消費者の幅広い支持を受けることとなる。

「おかめ納豆」というブランドは、昭和39年以前には全国に15~20種類もあったといわれている。高野英一(現会長)は、早稲田大学の広告研究会に所属していたころ、「おかめ納豆」のブランドマークの商標登録を考え昭和39年出願、昭和42年に登録が認められた。以後、おかめブランドは、信頼のブランドへと成長するのであった。

この間は、チェーンストアの出店ラッシュに湧いた時代であり、おかめ納豆の売り上げは順調に推移し、現在の基礎を築いていった。当時、納豆メーカーが苦慮していたのは、供給が需要に追いつかないという生産能力の問題であった。その中、おかめ納豆は十分な供給力を備えた数少ないメーカーであったが限界は目に見えていた。昭和47年3月、霞ヶ浦工場増設工事が完成に伴い、日産20万食体制となり、需要のバランスがとれると思われたが、再び増設の必要に迫られることとなる。スーパーの展開に伴う納豆の需要は予測を大きく超えていたのである。昭和50年の霞ヶ浦再度の増設工事により、日産50万食の増産が可能となった。この2度にわたる増設の結果、霞ヶ浦工場は近代的な立体工場に生まれ変わり、省力化をも実現できたのである。

1957年(昭和32年)~1978年(昭和53年)

  • 玉里工場(後の霞ヶ浦工場)
  • 最初に商標登録したマーク
  • 霞ヶ浦工場から出荷される前の記念写真
  • 3階建ての立体工場となった霞ヶ浦工場