タカノフーズのあゆみ

1979 1984 小川野田工場完成と、髙野英一新社長による飛躍

昭和48(1973)年の第一次、54年の第二次オイルショックを経て、昭和50年代は重厚長大から軽薄短小へ、モノからソフトへと潮流が変化し、情報化社会が到来しました。ライフスタイルの多様化・個性化の進展に伴って食生活にも大きな変化が生じ、高級グルメ志向、家庭内の個食化が顕著になりました。自然食品がブームとなり脂肪分の少ない植物性タンパク質として大豆製品、特に納豆が脚光を浴びることとなりました。

おかめ納豆本舗は、イトーヨーカ堂、ダイエーなどの大手スーパーに続き、昭和50年ごろからCGC、コンビニエンスストアに新たな販路を切り開きました。セブン‐イレブンには1号店オープンと同時に納入した実績を持っています。

商品別にみると、極小粒は市場を独占。特に個食化のニーズにマッチしたミニ化やグルメ志向に応えた大粒大豆の「副将軍納豆」で業界をリードしました。

昭和54年8月、有限会社から株式会社へ改組。資本金も5,000万円に増資し、第二の成長期を迎えようとしていました。

同年9月、髙野徳三は果敢にも小川野田工場(現水戸工場)の建設に踏み切りました。それは最新鋭の生産設備を備え、合理性を追求した業界最大規模の工場になるはずで、リスクの大きい先行投資に危惧の念をいだく向きもありましたが、将来を見越した髙野徳三は少しもひるみませんでした。

昭和57年11月、待望の小川野田工場が完成。大豆選別洗浄装置、連続蒸煮釜、充填ラインなどを取り入れた、まさに近代的工場となりました。「人に見ていただける工場にしたい」という髙野徳三の意見で、時代を先取りする見学通路も併設されました。

  • 小川野田工場(現水戸工場)
  • 当時の商品群

しかし、髙野徳三は昭和56年5月、小川野田工場の完成を見ることなく他界しました。髙野なをとともに高野商店を資本金5,000万円の株式会社に育て上げただけでなく、茨城県納豆商工業協同組合理事長、全国納豆協同組合連合会副会長として業界の発展に尽くし、さらには小川町町会議員を三期務めるという充実した生涯でした。

髙野英一が故人の遺志を継ぎ、代表取締役に就任。昭和56年、CIを導入してブランドを統一、57年、将来の事務省力化をにらんでオンラインシステム化を実現、59年には製品のより安定的な生産を期して小川野田工場に生産管理コンピュータを導入するなど、矢継ぎ早に積極的な事業展開を図りました。一方、より安全に生産するため「整理」「整頓」「清掃」「洗浄」「殺菌」の5S運動を展開し、大きな成果をあげました。

昭和59年にはまた、企業テーマの「人づくり、健康づくり、食文化づくり」を推進するため、「ニューモラル教育」を導入しています。「人としてどうあるべきか」「どういう生き方が幸せか」といった最も根源的で難解なテーマについて考えることを通して健全な心の育成を目指したもので、企業の発展を支える優れた商品づくりの基本は優れた人材の養成にあると説かれています。まさに「モノ作りの前に人づくりあり」です。

このころ、髙野英一は納豆と原料を同じくする「豆腐事業」への進出を企て、総合食品メーカーとしての第一歩を踏み出しました。

  • 5SQCサークル活動の発会式
  • 社内報「おかまわり」創刊号