タカノフーズのあゆみ

1985 1988 社名変更で企業イメージを刷新 研究所の完成と小川野田工場の増設

日本経済が高度成長期から成熟期へと移行するのに伴い、消費の高級化・個性化は一段と進展をみせました。大量生産から多品種少量生産への転換、質の追求です。

食の分野では、電子レンジ専用の「レンジグルメ」が登場。ハーゲンダッツやホブソンズのアイスクリームが人気を呼び、若者たちが行列を作りました。

納豆は一般には種類が少ないと思われがちだが、食生活の多様化に応えて次々と新商品を開発した結果、昭和60(1985)年ごろには、タカノフーズの商品ラインアップは27品目に増えていました。豆の大きさ、パックの量、たれ、味に至るまで、多様な商品を生み出し、新しい食べ方の提案にも積極的に取り組んできました。

昭和60年5月、昭和32年12月以来28年近く慣れ親しんできた「おかめ納豆本舗」から「タカノフーズ」に社名が変更されました。昭和56年に導入したCIが完了し、社名から〝納豆〟の文字が消え、総合食品メーカーへと企業イメージが刷新されました。

  • CI導入後のパッケージ
    おかめの顔が、現在のものになる
  • 当時の研究所

昭和60年6月、スーパーの広域企業が関西に進出したのを機に、大阪営業所を生野区に開設。大手納豆メーカーでは最後発の大阪進出となりました。

進出当初は、先発組を大事にする大阪商人気質に戸惑い、苦戦を強いられました。しかし、これが全国展開の端緒となり、以後、北海道、東北、九州の各営業所設置につながっていきました。

昭和60年11月、小川野田工場敷地内に研究所が完成しました。国の機関、大学、他メーカーでも行っていなかった納豆の研究・開発に着手し、生産工程の効率化・商品開発に数々の実績をあげるようになりました。納豆菌の研究や原料大豆の種子開発など、業界をリードする研究・開発も行っています。

  • 納豆の硬度測定
  • 研究風景
  • 納豆菌

昭和61年3月には首都圏における営業体制の強化・拡充を図るべく、東京営業所と横浜営業所を統合して、東京支店(現営業本部)が台東区に開設されました。

納豆はデイリー商品で単価も安いため、物流がネックになる場合が多いです。売り上げが伸びても、その伸び率以上にコストが増えれば利益はかえって減少します。物流が経営上重要なゆえんです。昭和61年12月、小川野田工場に水戸配送センターが完成しました。トラック専用バースを備え、集荷・積載の大幅な効率化を実現した施設で、以後、全国展開のたび、こうした近代的配送センターが、拠点となる場所に設置されることとなります。

昭和61年12月から翌年3月まで、関東一円のお茶の間におかめ納豆のテレビスポットが繰り返し流されました。その3年前、長野県で実験的にテレビCMを放映し、15%のシェアを27%にまで伸ばした実績はあったものの、社運をかけたCMでした。結果は、翌日出荷する商品を心配しなければならないほどの大成功。このうれしい悲鳴が小川野田工場増設を促すこととなります。

  • 水戸配送センター
  • 小川野田工場(現水戸工場)全景

昭和62年12月、最先端の新鋭工場が完成。製造品目は極小粒85グラムと極小粒30グラムカップ3。これまでの経験をもとにさらに改良を加え、無人搬送ロボットを導入するなどFA化が進められました。製造能力は日産最大200俵ながら、自動化・省力化の結果、工場要員はわずか30人。特に蒸煮釜は無人運転化を図ったため、監視員は涼しい部屋で作業することが可能となりました。滝の汗を流しながらの苦役から解放する、夢のようなモデル工場となりました。